
四六時中続いているわけではないのだが、何かの拍子に「あれ?地震かな?」と思うことが多くなった。
電灯のひもだとか、飲みかけのコーヒーカップだとか、揺れの影響を受けやすいところを見ても揺れてはいない。
ひどいときには、周りは揺れていないのに身体が振れていたり、足下がふらついたりすることすらある。
聞けば“地震酔い”という症状らしい。
震災時の緊張感や恐怖心などから、平衡感覚を司る三半規管と脳の連携が上手くいかなくなるのだというから、これも一種の自律神経の失調症なのだろう。
それはさておき、阪神淡路大震災の後に聞いた話を思い出した。
第二次世界大戦の際の東京大空襲の後に子ども達が書いた作文には、空襲で街が焼けた様子を見て「花火のようできれいだった」とか、防空壕での避難時の様子を「野営(キャンプ)のようで楽しかった」とか、子どもならではの逞しさと無責任さが発露した文章が多く見受けられたのだという。
それに対して、阪神淡路大震災の直後には、「お風呂に入れないので死んでしまいたい」とか、「トイレが水洗でなくて耐えられない」とか、そういった文章が目立ったのだという。
当然、大戦中の子ども達も、家を失ったり、肉親や友人を亡くした子ども達もたくさんいた。
原因こそ違えども、震災時の子どもと同じ状況におかれたはずである。
それなのに、50年の時を経たこの違いはどこから来るのだろうか。
私たちの社会は、子ども達から逞しさを奪ってきたとしか思えない。
子どもは無責任でよいのである。
けれど、逞しくあって欲しい。
戦争や災害で苦しい中でも、それを楽しんでしまえる逞しさが、子ども達自身も、そして大人達をも救うのではないだろうか。
今回の東日本大地震では、どうであろうか。
どんな境遇にあっても楽しめてしまう逞しさをつくり、支えるには、やはり生きるための知識と技術を備えていることが最低条件としてあるように思う。
焚き火ができて、料理ができて、自然の中から食料を得ることができて、テントで快適に眠ることができて、ナイフが使えて、まだまだいくらでもある。
そういったひとつひとつが、子ども達を逞しくするのである。
野外での遊びや生活の体験がやはり必要なのだと思う。
野外に出ることができなければ自宅でも良い。
毎月11日は“キャンプの日”などと決めて、自宅にあっても、電気・ガス・水道等を使わない生活をすることから始めるのだ。
今回の震災を忘れないためにも機能するだろうし、非常食や非常用品のチェックの機会にもなる。非常時の生活を楽しむことができる能力も培われる。
具体的な実行プランの是非は検討を要するとしても、少しでも実行できればその分だけ子ども達は逞しくなる。
このアイデア、いかがだろうか。
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